バッタンバン滞在記

バッタンバン滞在記

休学中の大学院生。カンボジアのバッタンバンで 認定NPO法人テラ・ルネッサンスのインターンをしています。 自身の備忘録も兼ねて、3ヶ月半の滞在期間中限定でNGOのお仕事、 バッタンバンの街について日記形式でご紹介します。

Day045_カンボジア一人旅(プノンペン編)vol. 2 /キリング・フィールドとトゥールスレン虐殺記念館

プチュム・バン最終日です。プノンペンは終日晴れでした。

昨日よりは若干開いている店が増えたような。しかしロシアンマーケットは今日もおやすみでした。

昨日訪れたロイヤルパレスでトゥクトゥクのおじさんに捕まり、今日は1日、25ドルで市内を好きなだけ回らせてもらう約束をしていました。

先に書いておきますが、キリング・フィールドを入れても多分25ドルは高すぎました…(ホテルの位置にも寄りますが、ロシアンマーケットからならPass Appで調べるとキリング・フィールドも片道4ドル弱です)。

さらに、

今日は開いているから!と言われたマーケットは結局開いていなかったし、
どこでも連れてってあげるといいながら、オルセーマーケット行ってみたい!と言ったときは観光客向けじゃないからとイオンに連れて行かれたし、
最後に行ったマーケットでは他の仕事が入ったのか、半ば急かされる形で買い物させられたしで、

もう明日から絶対タクシー配車アプリ(Pass App)を使おう…と心に決めた一日でした(私が舐められただけかもしれませんが)。ただし、降車位置もあらかじめ設定できてしまう配車アプリより、ドライバーさんとああだこうだ会話はしやすいのですよね。それは楽しかったのでまあ良かったかなと思います😭

ちょっと長くなってしまったので、今日の記事には目次を付けます。

ご注意

本記事には内戦時代に多数の方が苦しまれた収容所とキリング・フィールドの記述、および写真が含まれます(トゥールスレン博物館は建物の写真のみ)。

そうしたお話を読むのが辛い方・苦手な方、今日は少し気持ちがしんどい方はこの記事をここで閉じて頂き、他の記事をお楽しみ頂けますと幸いです。

いつも最後に書いている本日の出費も、今日は先に書いておきます。

本日の出費(400KHR ≒ 1.0USD)
  • 食料品
    • ポカリスウェット:6000KHR(ポカリ1.6ドルは完全に観光価格のぼったくり…。言い値で買ってはいけなかったなあ…。バッタンバンのアクエリアスは0.5ドルです…。)
    • イオンでのご飯:4.13USD
    • 夜ご飯用のバゲット(1/2 × 3):10500KHR(高い…😭)
    • 生春巻き2ヶ:1000KHR
  • 入場料
    • キリング・フィールド:6.0USD
    • (任意の慰霊のお花1本):2000KHR
    • トゥールスレン虐殺博物館: 8.0USD(音声ガイドあり。無しなら5.0USD)
  • トゥクトゥク代:25.0USD

キリング・フィールド

ホテルまで8時に迎えに来てもらい、チュンエクのキリング・フィールドへ。少し離れているので、中心部からは30分〜40分くらいかかります。

通称、キリング・フィールドと呼ばれるこの場所の正式名称は、「チュンエク大量虐殺センター」です。

日本語版の音声ガイドがあり、ストップポイントで解説を聞きながら進んで行きます。全部で36トラックありました。

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この場所で起こったこと

1975年4月17日にプノンペンに進攻したポル・ポト

彼が目指したのは、身分も資産もない平等な社会でした。個人資産は破壊されるべきだとされ、土の上で働く労働者、農民こそが一番上にたつ社会を作ろうとしました。

農民たちは基礎人民と呼ばれた一方で、教育を受けた医師や教師、法律家、外国語のできる人、僧侶、さらにはやわらかな手をしている人、メガネをかけた人、都市に住む人々は、「新しい人々」と呼ばれ、彼らは理想の社会の潜在的な敵であるとみなされました。

「新しい人々」の多くは捉えられ、アメリカのCIAやソ連KGBのスパイであるとか、共有の米を盗んだであるとか、仕事をしなかったであるとか、そうした嘘の供述書を作らされました。処刑の口実をつくるためです。

拷問の末、友人や家族も同じことをした仲間であると供述させられました。

この場所は、そのように収容所で拷問を受け、偽の供述をさせられて死刑を宣告された方が、処刑をされる場所でした。

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たくさんの遺骨が見つかった墓地

数週間おきに50〜70名の方がこの場所に連行されては処刑されました。

クメール・ルージュの体制が崩壊し始めていた1978年には、虐殺がエスカレートし、一日で300人の方が殺されたといいます。

「新しい場所に移るだけだから」と嘘をついて、収容者をトラックに乗せていたそうです。

1975年にポル・ポトプノンペンに入り、1979年にベトナム軍に追い出されるまでの3年8ヶ月20日の間に、当時の人口800万人のうち、300万人の方が亡くなりました。

プノンペンからの強制退去と労働

当時のカンボジアは、汚職と食糧不足で人口の八割が貧困にあえいでいました。また、米国が北ベトナムの供給ルートを断つため、カンボジア農村部に空爆を繰り返しており、都市には農村からの避難民が溢れていました。

当時、政権を執っていたのは、アメリカからの支援をうけてシハヌーク国王にクーデターを起こしたロン・ノル政権。アメリカに対抗しよう、そしてこの苦境を終わらせようと謳ったポル・ポト派は、喜びをもって大衆に受け入れられました。

ポル・ポトは知識を持たない農民階級の青年を集めて軍を組織し、都市の人間は利己的で悪で、そのような人たちのせいで現在の苦難があるのだと教えました。そのうえで、彼らには仕事と給料を約束しました。

1975年4月11日にクメール・ルージュプノンペンを陥落した日から、悪夢は始まりました。48時間以内に学校、病院、銀行、省庁のすべてが封鎖され、住民は退去を余儀なくされました。3日でプノンペンは空になったといいます。また、カンボジア内部のその他の多くの都市からも住民が退去させられました。

人々は農村部への移動を強いられ、農業に従事させられました。アンカー(クメール・ルージュの秘密の幹部体)からの司令は、どんな土地であっても米の収穫量を三倍に増やすことでした。無論、農業の知識も経験もないクメール・ルージュの地方官僚と元々都市で仕事をしていた人たちが、米の収穫量を増やせるはずもありません。

しかし、水路や土手の建設、下肥、田植えなど、人々はひどい日には12時間以上の労働を強いられました。食料は一日2回、水のようなお粥だけ。飢えと過労で多くの人が亡くなったといいます。

クメール・ルージュは、処刑や拷問に際して、異常なまでに正確な記録を取っていました。

トラックで人が運ばれてくるたびに、収容所からの名簿リストに照らし合わせて名前が綿密にチェックされました。逃げたり、処刑されずにいる人がいないかを確認するためです。

チュンエクには拘置所を初め、武器庫や事務所など多くの建物があったのですが、内戦が終わった際に近隣住民が住処をつくるためにすべて取り壊されてしまったといいます。現在は、各ポイントにこのような看板が建っているだけです。

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処刑のされ方

処刑は、近隣の住民にばれないよう、夜に行われたため、一晩で殺しきれない場合には、木造の壁だけがある拘置所に一日置いて置かれました。

ここでは、24ヘクタールに129の墓地が見つかっており、2万人近くの犠牲者が推定されています。発見された当時、集団墓地の盛土は遺体から発せされるガスで盛り上がっていたといいます。まだ発掘されていない墓地も、40以上あるそうです。

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ヤシの木の皮も殺害に使用された

クメール・ルージュは、処刑や拷問に際して、異常なまでに正確な記録を取っていました。

トラックで人が運ばれてくるたびに、収容所からの名簿リストに照らし合わせて名前が綿密にチェックされました。逃げたり、処刑されずにいる人がいないかを確認するためです。

名前の照合が終わると、一人ずつ穴のへりに連れて行かれ、そこにひざまずかされました。銃弾は高くて使えなかったため、処刑は斧やなた、ハンマー、荷車の車軸といった農機具や建設用具で行われました。「罪のない人を誤って殺すのは、敵を誤って殺しそこねるよりマシである」と教えられていたそうです。

死体が穴に落とされた後は、砂糖椰子の木の皮や果物ナイフで喉が掻き切られました。最後に、DDTという有毒の殺虫剤が振りかけられました。実に息の根を止めることと、死体の腐臭を消し、近隣住民にばれないようにすることを目的に使用されたといいます。

カンボジアの方だけでなく、西洋からのジャーナリストや、カンボジア内部の幹部の遺骨もここで発見されているそうです。

頭蓋骨や足の大きな骨は、キリング・フィールドの中心に立つ慰霊塔に収められていますが、あばらなどの小さな骨はとても収容しきれず、地中に埋まっています。雨季になると、雨で土が流されて今でも地表に浮き上がってくることがあるそうです。2ヶ月から3ヶ月に一度、この場所を管理している方が収集して下さっているといいます。

展示物の一部

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ある墓地の近くに立つ木です。100名近くの女性の遺骨が見つかっているこの墓地では、乳児の遺骨も見つかっています。

乳児は、キリング・ツリーと呼ばれるこの木に打ち付けられ て殺されました。

「雑草を取り除くなら根こそぎ」というスローガンのもと、後に報復をされないよう、血縁ごと殺すのがクメール・ルージュのやり方でした。

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この菩提樹の木には、かつて、大きなスピーカーがかけられていたそうです。夜に革命歌を流し、処刑の際の叫び声や音をかき消し、クメール・ルージュの集会をしているカモフラージュをしていました。

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1988年に作られたという慰霊塔。2011年時点で、カンボジアでは300箇所以上の処刑場が見つかっており、そのうち80箇所が遺跡として残されました。チュンエクはそのうち最大の場所です。

ポル・ポトプノンペンを陥落した17日にちなんで、塔は17階建てになっています。遺骨は鑑定がされ、年齢ごとに分類されて納められていました。

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裏には池もある

まだほんの40年前に、この場所でそんな恐ろしいことが起きたのだとは信じられないくらいに、緑が多く本当に綺麗な場所です。聞き直したり、博物館の方までゆっくり見ていたりしていて、ふと気がついたら3時間弱経っていました。

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あまりに長くいたので心配になったのか、ドライバーのおじさんは心配になって中に探しに来ていたようです(笑)、出口の係員さんに「あれ?ドライバーと出会わなかった?」と聞かれました。

AEON

オルセーマーケットにおいしいご飯があるとブログで読んだことがあって、行ってみたかったのですが…「あそこは機械と家具しか売ってないから!観光客向けじゃないから!」と猛反対されイオンにつれて来られました。

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なるほど、一度来てみたかったからこれはこれで良かったと思おう。

洋服屋さんから電気屋さん(nojimaがあった)、小物屋さん、ゲームセンター、そしてフードコートやカフェを備えた、日本と全く変わりないイオンモールです。

日本の地方都市の小さめのイオンよりずっと大きいです。スタバもケンタッキーもありました。

和民や吉野家、すき焼き食べ放題、回転寿司…など、日本食も充実していました(高いので入らなかったけれど)。ビアード・パパのシュークリームも売っていました。

中国料理屋でヌードルを食べましたが、4ドルかあ…という感じ…。やっぱりご飯はマーケットのほうが安くて美味しいです。

カンボジアに来てからは、村ばかりを見ていたので、プノンペンとの格差に面くらいました。欧米の方もいらっしゃいますが、利用者のほとんどが地元の方です。

トゥールスレン虐殺記念館

午後は街中に戻り、トゥールスレン虐殺博物館へ。

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この場所で起こったこと

別名S21と呼ばれるこの場所は、元々高等学校でしたが、ポル・ポトプノンペン侵攻半年後に、セキュリティーセンター(収容所)へと変えられてしまいます。カンボジア全土167箇所のセキュリティセンターと330箇所の虐殺場、そのすべてを統括する中心となるセンターでした。

1975年から1979年の間に、1万〜2万の人が収容されたと推定されています。そのうち、確認されている生存者はわずか12名です。近隣の方からは「人が入っていったら二度と出てくることがない場所」と言われていたといいます。

この収容所の所長であったカン・ケ・イウ氏(通称ドッチ)は、国際裁判にかけられたクメール・ルージュ幹部のうち唯一その責任を認めている人物です。

敷地内には4つの校舎があります。教室は集団の収容所や独房、そして拷問の部屋として使われていました。現在は、写真や拷問に使われていた部屋が展示されています。おそらくフラッシュをたかなければ撮影は可能だったのですが、部屋の中に私はカメラを向けることができませんでした。

墓石

1979年、ベトナム軍にこの場所が発見された際、拷問の部屋に残されていた14名の方のお墓です。職員は急いで逃げねばならなかったため、遺体が放置されていたといいます。拷問に使われていた各部屋には、お顔を隠した写真も展示されています。

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A棟

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A棟は特別重要な収容者が拷問をうける場所でした。一日に3回も受ける方もいたといいます。

拷問されていたという場所は、足かせの付いたベットとトイレのための弾薬箱と、机がぽつんとあるだけでした。

キリング・フィールドの部分で書いたように、収容所は処刑のための口実となる供述をさせる場所でした。 机は、偽の供述書を書くために使用されました。

匂いはありませんでしたが、ベッドの下は異様に黒ずんでいました。血が染み込んで取れないのだと思います。

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A棟前の掲示板に、この収容所での規則が掲載されていました。

「質問された事にそのまま答えよ。話をそらしてはならない。」
「何かと口実を作って事実を隠蔽してはならない。尋問係を試す事は固く禁じる。」 「これらの規則を守らなければ、10回のムチ打ちと電気ショックを与える。」

という、異常な規則が書かれています。

B棟

B棟には、幹部らの写真や、この場所で亡くなった方の写真が展示されています。この収容所に来た方は、一人ひとり身長を計測され、職業を確認され、顔写真を取られて記録を撮られました。写真の中には、まだ幼い顔もあります。収容者には番号がつけられ、拷問の時以外、名前で呼ばれることはありませんでした。

クメール・ルージュは、知識も持たず読み書きができないような農村部の青年を雇用しました。クメール・ルージュの職員らの写真は、10代から20代のあどけない顔ばかり。教育はいらないというポル・ポトの方針の下、彼らに施されたのはプロパガンダと革命の刷り込み、そして自己批判会議だけだったといいます。

また上階には集団収容所があります。高校の教室ほどの広さに約60名が、鉄の足かせで繋がれて横たわらされていました。

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校庭でかつて運動用に使用されていた器具も、収容者を吊るし上げる拷問具として使われました。吊るし上げて気絶した収容者の顔を、糞尿の入った樽に押し込んだといいます。

C棟

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C棟には、れんがと木でできた独房がならんでいます。畳一つ分くらいの本当に暗い部屋がいくつもいくつも並んでいます。重要とみなされた方は集団収容所ではなく、この独房に入れられていました。

収容者が飛び降り自殺できないよう、外には網が張られています。

D棟

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D棟では、拷問の方法が説明がされている他、誤って拷問の際に殺されてしまった方の写真が残されています。「誤って」という理由は、この場所は処刑される場所ではなく、あくまで供述をさせる場所であったため、殺すことは許されていなかったからです。

クメール・ルージュの職員たちには「拷問は怒りをぶつけるところではない、記憶を破壊して、罪を植え付けるためのものであり、殺してはいけない」と教えられていました。誤って殺してしまった職員は収容される場合もあったといいます。

写真に写った亡くなった方の姿はどれも本当に痩せ細っていて、人間であるとは信じられないような姿でした。

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中庭のお土産売り場には、この収容所の生存者の方が座っていらっしゃいました。大工、芸術家、タイプライター、機械工といった、この施設に必要だった本当に数名の技術者だけはその能力を買われて生かされたといいます。

さすがにトラックがたくさんありすぎて(51トラック)、5つくらいのおまけトラックは聞くことができませんでした。ここでも3時間程滞在してしまい、またドライバーさんが心配して探しに来てしまったのですが、説明が丁寧なので、3時間いても見きれないくらいです。

最後のメイントラックには、この博物館は悲しい記録を保管していること、そして訪れたひとりひとりが、その記録の保管者になって欲しいというメッセージが強く語られていました。